自分はATで何を教えるのか?という問い(キャシー・マデン合宿2)

シータヒーリングインストラクター
アレクサンダー・テクニーク教師
中條マキコです♪

今回5日、

計23時間の合宿

今年は本当に

大きな学びの

流れの中にいた

という気がします

今回本当に

クリアになったのは

アレクサンダーテクニーク(以下AT)のレッスンで

「何を教えるか」ということ

これ、実は卒業してからも

なかなかクリアにならない

ほんとうに厄介な部分でした

そんなバカな、と

思われるでしょうけれど

ATのレッスンをしていると

正直なところ

自分が本当にATを、教えられて

いるのかどうか

それが

わからなくなってしまうのです。

レッスンは大概上手く行くし

生徒さんもニコニコで

帰ってくださいます。

それでもです。

その理由を考えてみると

ATの原理はとても

シンプルなもの

「こういう状態だと、

パフォーマンスよく動ける」

という、ヒトが

標準装備でもっている仕組みの

発見にすぎません。

なので、教えられなくても

実は全てのヒトが

意識せずに

すでにその状態でいることが

つまりATを使ったと

同じ状態を

誰でも

日々もれなく

体験しているんです

そういう普遍的な

脊椎動物の原理に基づく

本当にシンプルなものである一方

人間には一人一人キャラクターがあります。

それぞれの

身体的な歴史があり

さまざまな

肉体的、感情的な体験や

育った環境

もともとの

身体のサイズや

筋肉や骨の

強さ、大きさ

また、住んでいる

社会のルールやタブー

一族の常識など

そういう、一人一人

本当に違う状態で

望むものも違う

ATのレッスンは、その一人一人が

ATを、つまり

「こういう状態だと

パフォーマンスよく動ける」

という

共通のヒトに標準装備の機能を

使った上で

自分のやりたいことを

どうやるかを

探るというもの

なので、本当に

そのプロセスや結果が

十人十色

百人百色となるのです。

そして

「こういう状態だと

パフォーマンスよく動ける」という、

誰でも標準装備の

ATの原理を

発揮して改善する場合と

考えやうごきを

変えたことによって

標準装備の

ATの原理が

発揮される

という逆方向のことも

おきてくるわけです。

他にも、様々なベクトルで

改善は起きます。

そうすると

あれ?教えてないのに?

教えたいことの念を押さないで

いいかしら?

みたいなことを

考えてしまうわけですね。

アレクサンダー教師は

ヒトがすでに

知っているものを

教えている

という

そこがちょっと

トリッキーなのかも(笑

そして実は

アレクサンダーテクニークは

いろんな流派があり

この私の説明には

同意できないという方が

同じ学校で

学んだ方でさえも、きっと

いらっしゃるはずなのです。

でも、それは

どっちが正しいの?

どちらが本当のATなの?

どちらが正統なの?

というものでは

ないのです。

だって

人間に標準装備の

しくみを利用する

というところは

一緒なんですから

いろんな方向からの見方や

活用の仕方があってOKなのです。

私が魅力を感じ

学ぶことを決め

教わってきたというか

受け取ってきた

そして、教えていきたい

アレクサンダーテクニークは

これ、というのが

やっと言葉に

できた気がします。

”今のところ”ね(笑

よりよく変わっていく自由は、

自分に与えておきたい。

こんな風に

説明することすら

今までできなくて

なんかモヤモヤしてたのね。

それが

今回のキャシー合宿を経て

変化したのが

本当に嬉しい♪

どんなレッスンがあったから

コレを言われたから

というのは

特定できないんだけど

確実にあの5日間で

変化したという

ことだけは言える。

そして

実はほんとうに

いままで説明できなかったの

かというと

そうでもなく(笑

私がただ今まで

こう口にすることを選べていなかった

というだけのこと

そしてやっと

言うことを選び取った

という

たぶんそれだけのこと。

言葉を変えれば

「ATに関しては

これを教えると腹を括った」

とでも言えますかね♪

次回からはもう少し

レッスンの内容なども♪

【追記2018/5/20】

1年経ってから読み返して思うのは

結局、自分がレッスンに対して

ある意味自信が持てないという

状態だったわけで、

その理由のひとつに、

生徒さんがあまりにすぐに

変化してしまうので

自分が「教えている」という

「実感」が持てなかったのだ

ということに気がついた。

「教える」「教わる」ことの

古い習慣にしがみついていたので

あまりに早く、

教わることのできる生徒さんを

信用できていなかったという

ことかな。

いや、実は

教わることなんか何もなくて

自分がもっているものに

気づくだけなのだから

当たり前といえば

当たり前。

そして、何かを

教える必要がある、という考えは

本当に驕りであるといえる。

ヒトに何かを

教えなければいけない、という

わたしが持っていた「〜ねば」は

もういらない。

共にいて、学べる場を作る。

それを目指していきたいな。

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